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大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史』感想 および 私的体験からのラノベ定義論補足

 

 大橋崇行ライトノベルから見た少女/少年小説史』を読みました。

 

 まずは、戦前の少女/少年小説の流れの影響を受けて戦後に少女/少年マンガが盛んになり、それによって文字媒体での少女少年向けエンタメ小説が一時は退潮。しかし文字媒体での少女少年向けエンタメ小説が再び盛んになる過程については面白く読めました。

 

 実際には→ http://blog.livedoor.jp/sherlockology/archives/51965760.html

のような指摘はあるものの、それこそこのような分野により深く踏み込んだ著書は数が少ないと思われます。

 なので間違いがあるらと言ってこの著書を否定するのではなくて間違いを指摘し検証を進めていけばより面白いことになりそうだと感じました。

 

 しかしながら著者のライトノベル感があまりにも違和感があり首を傾げてしまいたくなるものなのです。

 

 実はこの本が出版される前に、著者とツイッタでほんの2,3ツイート程度ですがやり取りを交わしたことがありまして。

 

(著書の中で「炎上」と表記された出来事の中でのやり取りでしたので、もしかして僕とのやり取りも炎上と捉えられている?と思うと寂しいのですが、それはまた別の話)

 

 そのやり取りの中で「僕はラノベ読みとしてラノベを見ているが、著者は少女/少年小説側からラノベを見ている。その差が違和感となっているのでは?」と感じました。

 

 そのような意識がある状態で読みすすめたために、先入観から違和感があるのかとも考えましたが、やはりそれだけが原因ではないと考えます。

 

 たとえば少女小説ライトノベルに含めない理由として「コバルト文庫は、作者-読者共同体を作り上げることで成立しており、コバルト作家をライトノベル作家と呼ぶことはコバルト読者共同体の外部の人間であることを暴露している(要約)」と、コバルト内部の理屈を用いています。

 

 そして一方、1990年にライトノベルと用語が誕生したことを理由に、そのイデオロギーの正しさを外部に押し付けるのは現実にそぐわず実態のないことだと、内部の理屈を外部に用いるなと否定しています。

 

 一方では内部の理屈を用いて説明し、もう一方では内部の理屈を外部に押し付けるなと否定する。これってラノベ側からしたら「ダブルスタンダードじゃないの?」とどうしても感じてしまいます。

 

 だってこれをそのままひっくり返せば「コバルト読者の内部の理屈で、ライトノベルを判断するな。この作品はやはり少女小説ライトノベルだ」や「ライトノベル誕生時にはこのような概念だった。だからそれを無視している論説はライトノベル共同体の外部の人間である」という事が可能であります。

 まったく逆なのにもかかわらず、それもまた著者の論理をそのまま適応しているわけですから。

 

 ですので、著者のもとにラノベ側からさまざまな反論が届いていると思いますが、著者はそれを「著書にちゃんと書いてあるのに、ちゃんと理解できないのか?」と感じると思います。

 しかしながらラノベ側としては「読んだけどダブルスタンダードだし」としか感じません。

 

 そこらへんが炎上の原因なのでは?と考えたくもなるものです。

 

 ではどうしてこのようなことになってしまったのと考えますと、一つは先ほどから書いています少女小説側からラノベを見ているのでその差異。そしてもう一つは「まんが・アニメ文化の特権化されていた」という認識そのものではないでしょうか。

 

 前にも書いた私的体験を書かせてもらいますが、僕がラノベに出会ったのは小学6年後半から中学1年前半の一年間に

ライトノベルの元祖的存在である新井素子の『グリーンレクイエム』『…絶句』

ライトノベルという単語が生まれる前の『銀河英雄伝説

ライトノベルという単語が生まれた直後の『フォーチュンクエスト』

を読んだことが最初です。今まで児童文学しか読んだことのなかった僕はこれらの作品群を読んで「世の中にはこのような小説もあるのか」と衝撃を受けました。

 

 その衝撃を僕が一言で表すと「アニメのリアリティで書かれた小説」となるので、「まんが・アニメ文化の特権化」と言われても、「でもそれがラノベだよね?」としか返せないのです。

 

 でもこれってお前の私的体験がベースで客観性はないよね、と言われそうですが、実際そのとうりです。ですが、僕はその時代はまだラノベを知りませんし、研究者でもないので具体例は示せませんが、多くの人間がそのように感じたであろう断片的な事例を示すことは出来ます。

 

 新聞記者が新井素子へのインタビュー記事で「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです」と曲解したこと。読者もそれを素直に受け止めたこと。

 新井素子デビュー当初はその文体はマンガやアニメとの関係で論じられることが多かった事。

 新井素子批判者が「字マンガ」と馬鹿にしたり。

 

 と、当時からまんが・アニメを意識しているのが断片的ながら読み取れます。そのような流れで出てきたライトノベルを語るのにまんが・アニメを特権的とだとかそのために認識が歪められてきたと言われても、仮に本当に歪んでいたとしても、そのような姿勢ではまた別の方向に歪んでしまうだけとしか思えません。

 

 ではその歪みを少しでもマシにする方法を一つ提案したいと思います。それは「ラノベは読者に求められ、発見されてきた」という視点を持つことです。

 

 なぜ読者に求められたのか。そのヒントは著書の中にあります。

 

 それは文字媒体の少女/少年向けエンタメ作品が、少女/少年向けまんがにより一度は衰退していることです。

 衰退の幅や深さは少女/少年向け作品で違うとの事ですが、文字媒体と画像媒体という大きな違いのある小説と漫画です。いくら少女・少年漫画が少女・少年小説の流れを汲んでいるとはいえ、その受け止め方や感性が大きく違うのは想像できます。

 文字媒体エンタメとして見た場合、漫画をはさんで一度は断絶したと考えてもおかしくないはずです。そして文字媒体が復活したとはいえ間に漫画を挟んでいます。断絶前と断絶後、同じ文字媒体エンタメ小説とはいえ、その感性は大きく違っているのです。

 そのような読者が漫画を読むような受け止め方や感性を、意識的にしろ無意識にしろ小説作品に求めても不思議ではないと考えます。

 

 しかしながら、始めから漫画を読むような受け止め方や感性を持った小説がそろっているわけではありません。そこで読者はSFから、ファンタジーから、ミステリから、少女/少年小説から、そのように読める作品を発見していく事となります。

 

 そしておそらくは出版社側もそのような読者側の期待に気付き始めたのだと思われます。そのような作品がソノラマに集まりだしたり、スニーカー文庫が創刊されたりします。

 

 また読者側でも区分のために名称を求めるようになり、「ライトノベル」という名称が誕生しまた。

 

 これは今までのラノベ歴史観そのままですが、まんが・アニメの特権性を抜かせば著者が書かれた少女/少年小説の歴史を踏まえたうえで再編成しても特に問題がないと思われます。

 

 ラノベには少女/少年小説の流れを大きく汲んでいること。ラノベはアニメのリアリティーで書かれた小説であること。それを読者が求めて発見してきたこと。それは特に矛盾していないと思います。

 

 まんが・アニメの特権性とやらにこだわりすぎて変に少女/少年小説とラノベを直結させるよりは、少なくても著書で書いてあるとおり漫画をはさんだ断絶があるのを受け入れた上で、漫画・アニメ的感性を持った読者がラノベを求め探し出したことを前提に、少女/少年小説とラノベとの深い関係性を考えたほうが歪みは少なくなると考えました。

 

 以上、ラノベ側の一読者からの感想です。

 

 

 (11月27日追記)

 まんが・アニメの特権化と主張していますが、なぜそうなっているかとを考えると、少女/少年小説とラノベの間に漫画を挟んだ断絶があること。漫画を挟んだ断絶があるために、断絶を挟んだ前後で読者が望む作品に変化が出てきたこと。その変化を象徴するのが断絶の原因である「まんが・アニメ」であったこと。

 これが意識的にしろ無意識的にしろ多くのラノベ読みが感じてきたことであり、70年代、90年代、そして現在のラノベ読みの共通している部分であり、それは本書に書かれていることからも読み取れるはずです。

 

 にもかかわらず、著者はまんが・アニメの特権化を語るために無視していると感じます。

 一方で著者は少女小説ライトノベルに含めない理由としてコバルト読者共同体の外部の主張であることを根拠とあげています。一方で断絶で起きた読者の求めるものの変化やラノベ読者の共通認識を軽視しています。

 一方の読者の認識は尊重して、もう一方の読者の認識は軽視している。これではダブルスタンダードと感じてしまいます。

 

 著者の主張のとおりラノベはまんが・アニメを中心として語られてきたために、少女/少年小説の影響を過小評価してきたのは間違いないと考えます。

 しかしそのことを強調するあまり読者が求めることの変化やラノベ読者の共通認識を軽視しています。

 そしてそれは著者のコバルト読者共同体の理論を借りるなら「ラノベを取り扱っているように見えて、ラノベ読者とコミットしていない外部の人間の主張であるためにラノベの話になっていない」という状況となっています。

 

 これが僕の感じた著者のライトノベル感に対する違和感の正体であり、この著書の問題点だと考えます。