KATCATの巣

ふしあわせという名の猫がいる-だから私はいつもひとりぼっちじゃない

江波光則『我もまたアルカディアにあり』感想

 

 江波光則『我もまたアルカディアにあり』を読み終えたので、その感想を。

 

 

 

 

 シェルターマンションや生体チップや身体の機械化、最初はSFを読んでいる感覚でした。

 

 途中からはそのような世界で夢を見たり相手と理想どうりの関係を持てないことに悩む少年少女を描いたジュブナイル作品を読んでいる感覚になりました。

 

 そしてそのような世界を作った人々を作った人々を描いた、まるで神話や歴史を描いたような、偽典・偽史を読んでいる感覚になりました。

 とくに(バックに何者かがいたとはいえ)このような世界を創造した人物が熊沢という、狙っていたのか偶然なのかは知りませんが皇位僭称者の苗字であったことがますます偽典・偽史な雰囲気を醸し出しています。

 

 時系列がバラバラでそれが面白い効果を出しさまざまな読書感覚を楽しめました。

 

 それはともかくとしてだ。このような読書感覚とは別に妙な懐かしさを感じていたのですが、読んでいるときにはその懐かしさがどこから来るのかがよく分からなかったのです。

 

 しかし読み終えて読後感を味わっているときに、その懐かしさの正体がわかったのです。それは「終わりなき日常」というやつでした。

 

 この作品は働かなくても生きていけるシェルターマンションという究極の「終わりなき日常」での物語として読むことができ、約20年前に発表された概念に懐かしさを感じていたのです。

 

 「終わりなき日常」に(まったりとは違う方法とはいえ)上手く馴染んでいる人物の物語。嫌いな人物の物語。

 「終わりなき日常」が自分の夢を阻止されている若者の物語。不満はないものの妙な苛立ちを感じている若者の物語。

 「終わりなき日常」を実現された世界を創ろうとした人物の物語。それをを破壊しようとした人物の物語。

 読んでいる途中には自分で気付かなかったものの、いつのまにかそのような読み方をしていたために懐かしさを感じていたのです。

 

 そして「終わりなき日常」という読み方をしていた事に気付かなかったことに、懐かしさを感じたことに、発表されてから約20年たっていたことにショックを受けました。

 

 そして「終わりなき日常」を描いた作品がSF作品として発表されたことに、日常ではなくてSFとして発表しなければリアリティーを感じなくなっている状況にショックを受けました。

 

 「終わりなき日常」がもはや日常ではないという現実。一時期は多くの人物の共感を得ていたはずの概念にリアリティーが無くなっている事に。20年という年月の長さに。あるいは20年で変わってしまった世の中の雰囲気にショックを受けました。

 

 そしてここまで書いて「僕は何でこんなヒョーロンカみたいな文章を書いているんだ?」と恥ずかしくなってきたので、ここで終わります。